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幸せな朝の一コマ/アンタレス

──眠り姫は、王子様のキスで目を覚まし、彼と結ばれ幸せに暮らしました、めでたしめでたし。

 

 川端は、昨日、童話作家たちが読んでいた絵本のストーリーを、ふと思い出した。隣で、誰よりも愛おしく思う人が眠っているからかもしれない。川端は、そう結論づけることにした。

 見慣れた自室。窓からは朝日が差し込み、どこからか雀の鳴き声が聞こえる、爽やかな朝。川端は目を覚ましたばかりだった。

 しばらく雀の声をぼんやり聞いて、眠気が完全に消え去ると、川端は布団から身体を起こし、隣で眠る恋人兼尊敬する先輩を見遣った。

「……よほどお疲れだったのですね、徳田さん」

 

 川端康成と徳田秋声は、まだ付き合い始めて数カ月のカップルだ。川端の猛アタックに秋声の心が動き、付き合うことになった。しかし、恋人になったはいいが、お互い意識してしまい、ただの先輩後輩だった頃からは想像もつかないほどぎこちない関係が続いていた。しかし、そんな状態に痺れを切らした川端が、あの手この手を使って、ようやく昨晩、初めての情事にこぎ着けたところだった。今は、二人で迎える初めての朝、というわけだ。

 川端は、未だすやすやと眠っている秋声の寝顔を見ながら、今までの涙ぐましい努力を思い出す。

 長かった、ここまで本当に長かった!

 前世での経験は豊富なくせに、今世では照れ屋で不器用な秋声をその気にさせるのにどれだけの労力を使ったことか! いざとなれば土下座も辞さない覚悟だった。土下座はせずに済んだが、恥ずかしがる秋声を言いくるめるのは、人とのコミュニケーションが苦手な川端にとっては重労働だった。まあ、その分行為は驚くほど気持ちよかったのだが。

 そもそも、自己肯定感が低く、他人からの好意に疎いくせに多くの仲間に好かれる秋声と恋人になるまでも様々な試練があった。

 友人の梶井に恋愛のアドバイスを求めたり(「僕も振られてばっかりだったなあ……」と落ち込ませてしまい慌てた)、親友の横光に頼んで秋声を茶会に招待したり(甘味目当てで秋声の師が着いてきてアプローチできなかった)、高価なプレゼントを買うための予算欲しさに菊池に頼み込んだり(「借金で買ったってばれたら嫌われるぞ」と一蹴された)、秋声の兄弟子である泉に「弟弟子をどこの馬の骨とも知れぬ輩にやるわけにはいきません! 貴方も文士なら、文士としての格を示しなさい!」と突っかかられたり(「ノーベル文学賞ではご不満ですか」とカウンターを食らわせてやった)、愉快犯な秋声の師、紅葉が、事態をややこしくするようなちょっかいを出してきたり(取り押さえて幸田に引き渡した)と、度重なる妨害や失敗を乗り越えて結ばれたのだった。

 試練を一つ一つ思い出し、川端は溜め息を吐いた。何度も泣きたくなったものだ。

「……そういえば、徳田さんとの交際を始めると報告した時に、利一も泣いていましたね」

 「良かったな、川端……!」と男泣きをする親友の姿も思い出される。「おめでとう」と笑ってくれた菊池や梶井、「秋声を泣かせたら承知しない」と脅しをかけてきた紅葉と泉、「秋声を幸せにしてやってくれ」と力強く声をかけてきた自然主義の面々。皆、なんだかんだ自分たちを祝福してくれた。それが嬉しくてたまらなかった。

 この上ない幸福感に包まれながら、川端は秋声を見つめるその時、起きて一番に思い出した眠り姫の童話がまた頭の中に浮かび、川端のいたずら心を刺激した。そして、彼は、いきなり秋声の唇に口付けた。すると、

「ん……?」

 秋声の瞼がピクリと動き、そのままゆるゆると開かれる。そして、黒い双眸が川端を映し出す。

「……おはようございます」

 さすがに、「眠り姫」と揶揄うことは、恐れ多くてできなかった。

「おはよう、川端さんって、意外とお茶目なんだね」

 秋声は、少し掠れた声で穏やかに返す。

「……子供たちが、眠り姫の絵本を読んでいたので」

「ああ、なるほどね」

 身体を起こしながら、秋声は微笑む。川端は、恐る恐る秋声の頬に触れた。

「……眠り姫は、王子様の口付けで目を覚ましたあと、幸せに暮らしました」

「うん」

「私は、貴方の王子様になれますか」

 我ながら阿呆らしい口説き方だと思う。しかし、茶化さずに聞くのは怖かった。自分が本当に、皆の期待通り秋声を幸せにできるのか。皆のことを思い出して、わからなくなったのだ。

 秋声は、目を丸くしてぽかんとしていたが、すぐに噴き出した。

「もう、何その口説き方!」

 けらけらと笑う秋声。しかし、その笑い方に、嫌なものは感じない。

「川端さん、僕は、川端さんに好かれて、川端さんを好きになって、それだけで十分幸せだよ」

 秋声は、普段はあまり見せない満面の笑みを浮かべ、川端の頭を撫でた。

 川端は、頭を撫でられながら、秋声の言葉を脳内で繰り返した。そして、湧き上がってくる嬉しさを全力で表すように、秋声に抱き着いた。

「徳田さん……!」

「わっ! ちょっと川端さん、苦しい!」

「……これからも、よろしくお願いします」

 川端のその言葉を聞いて、暴れていた秋声は大人しくなった。そして。

「……うん、こちらこそ」

 優しい声で、川端の背中に手を回したのだった。

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