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夜をかさねる/弥助

 蕩ける様な一夜を明かせば、朝は緩慢な気だるさの中に訪れた。
 まだはっきりと意識は覚醒しきっていない。すう、と肺まで息を深く吸い込んだ。いい匂いがする。嗅ぎ慣れた匂いだ。腕の中から立ち上る、懐かしい匂い。あまく感じるこの香りにもう少し浸っていたい。腕の中にあるあたたかいものに、川端は鼻先を押し当てた。うん、とむずがるような声が上がって、それもすぐに元の静かな音に戻っていった。
 今が朝であるか、それとも、不意に目覚めた夜であるのかも測りかねて、瞼を少しだけ開いた。見れば、まだ仄暗い夜の名残と、朝の眩しさが溶け合う、薄明の頃だった。障子によって明け方の光の鋭さがやわらげられ、枕元に届くのは、ぐずる寝坊助を宥める母のような柔らかさばかりである。
 外はまだ鳥も鳴かぬ。起きているのはよほどの早起きか、夜を眠る時間にしなかったものであろうか。図書館には少なくともそのどちらもないようだった。中庭に面した窓からも、廊下に通じる扉からも、何の音もしなかった。
 もう少し視界を広くすれば、腕の中に柔らかい黒髪と、すべらかな首に続く肩が見えた。首筋の筋肉と、はっきりと見える鎖骨のかたちが肩で交わる。たいてい幾重にも着物を纏った肩はいまは露わになっていて、取り去った布の分だけその人をほっそりとしたシルエットに見せる。大人になりきらない少年のような肢体に、弓を引く腕の逞しさが、華奢なばかりではない力強さをも与えていた。
 裸の肩を抱きよせて、そのやわ肌に唇を触れさせれば、昨夜の残り香が不意に鼻腔をくすぐった。ふと、体の奥に熱が灯りそうになるのを、川端は小さなため息一つでそれを逃がした。独りよがりな熱など、相手に押し付けるものではない。
 この肌の下の血潮の熱さを知るのは、なにも昨夜ばかりのことではない。そして、この先二度とないということでもないのだから、そんなに名残を惜しむ必要もない。それでも、先のことで確かなことなど何一つないのが現し世というもの。離れがたいと思う、その未練がましさだけは、どうか許してほしい。
 射干玉の、と表現するほかない、艶やかな黒と、形よい曲線を持つ黒髪にすっと手を差し入れた。定型的に用いられる枕詞とは、ようするにその表現が一番ふさわしいと多くの人が考えてきたから、枕詞足りえるのだ。
 日本で古来より美しいとされてきた真っ黒の髪は絹のように触り心地がよく、とっておきの骨董品を箱から出して繰り返しめでるように、何度も何度も髪を梳いた。
 そんなことを繰り返していれば当然、眠れる獅子も赤子もやがて目を覚ます。彼は薬で眠った裸体の美女ではない――そして己も未だ、若々しい男のままである。
「……ゎばたさん?」
 舌足らずな甘い声が目を覚ます。ほとんど吐息のような声はまるで、気を遣ったあとの掠れた嬌声のようだった。灰色の瞳はぼんやりとして、少しずつその焦点を結ぶ。やがてその目が川端の首筋を、頬を、眼差しを捉えた。安堵するように瞳が緩む。
「……おはよ」
「おはようございます」
 まるで初めて交わった朝であるかのように、徳田はその頬に朱を差した。うっとりと余韻に浸る朝の、それは彼の癖だった。
 言葉はそれきり再び途絶える。何よりも雄弁な瞳があるのであれば、何かを言う必要もなかった。彼の方も同様に、ほんの数時間ほど前のことが思い出されているのかもしれなかった。そしてその時間はたっぷりとあった。文士たちに定期的に与えられる休日が、二人とも今日であった。何処かへ出かけようという話でもなかった。
 じいっと黙って瞳を交わしたままでいるうちに、徳田はおかしそうにくすくすと笑った。それも見つめていればこちらへも伝播してくる。よちよちと歩いていた小鳥が飛び立つ瞬間を見届けたような、絹をこすり合わせたような、そんな笑い声が二つ。
 やがて徳田が再び瞳を瞼の下に隠した。少し眩しくなった障子越しの朝日が、その薄い瞼を瑞々しく輝かせている。わずかに首を伸ばして、頬を川端の方へ寄せた。
――許されている。
 川端は徳田の耳から手を差し入れ、先刻のように髪を梳くと、徳田の唇へ自身のそれを触れさせた。少し乾いた、薄い皮膚の感覚。ついばむように二度三度、表面だけに触れていれば、ふう、と火の灯ったようなため息が彼の唇から零れ出た。
 昨夜の火がまだ残った、柔らかさの残る体に、ふいごで風を送るように口づけを繰り返す。表面に触れるだけではもう済まなかった。川端が息を吹き込むたびに、二人の体の名残火がはぜる。
「……ふ、」
 徳田の指が川端の中心に触れ、川端の指は徳田の秘所に触れた。川端があっというまに芯を取り戻していくのを、彼はまた微笑んで許した。彼の秘所もまた、ひくりと震えて川端の指に吸い付いた。
 名残火があるとはいえ、綺麗に始末をしてしまった場所である。傷つけることのないように、枕元に放ったままの、滑りをよくするものを指に纏わせて、指先をぷつり、と沈めた。
「ぅ、……ん」
 感じ入ったような吐息が川端の耳をくすぐる。まだじゅうぶんに広がりを持ったままの場所は、やわらかく指を迎え入れて、そして熱くうねった。この場所に早く包まれたい――本能的な欲望が再び頭をもたげて、ぐう、と川端は喉を鳴らした。
 芯を育てていた徳田の指は、与えられる快楽に翻弄されている。愛撫を与えられなくとも、そこは固く天を仰いでいる。恋人がこんなふうに、自分の与える刺激に合わせて感じ入っているのだ。それに欲を煽られないはずはなかった。
 粘ついた水音を立てて、川端は指を引き抜いた。
「、あ」
 途端、徳田がか細い悲鳴を上げる。気を遣ってしまったときのように、荒い息を一瞬止めて、ふと吐き出されたため息。
「先生……?」
「……なんでもない」
 なにか良くない場所に触れただろうか、それともまだ見知らぬ良い場所に触れただろうか。前者であればいけないと、徳田の表情を窺えば、彼はついっと顔を隠してしまった。だいじょうぶだよ、はやく、と囁く声は強がりではないようだった。
 くり、と指の腹で秘部をなぞる。ああ、とまた艶のある嬌声が上がる。その川端の指を、潤滑とはまた違った感触が伝う。
――ああ、これは。
 昨夜、己が彼の奥へ放ったものの残滓であった。拭ったつもりで拭い損ねていたものが、つうと伝い落ちて、それに感じ入ったのであろう。
「申し訳ありません」
「……ばか」
 いいから、はやく。
 川端は喉の奥で唸ると、こらえきれず、やや乱暴な仕草で徳田の足を掴み、秘所を晒した。恋人を待って健気に震えるそこへ、口付けるように先端を添える。そのまま腰を使って奥へと割り入れば、昨夜のはじまりとは違って、やわらかく包み込むような愛撫が川端の芯に触れた。
 痛みはないか。急に不安に駆られて、川端は徳田の顔を見た。
 彼は、先ほど川端を許したときと同じ微笑みを浮かべていた。
「あッ……!」
 加減も何もできず、川端は己を深くへ突き立てた。一番奥の良いところまで届くのはすぐだった。悲鳴はどこまでも甘く耳をくすぐった。夜のような激しさはないものの、ゆっくりと奥を突き、その中できゅうと包まれるのは、また違った恍惚をもたらした。
「……あ、かわばた、さ……」
「先生っ……秋声、さん……」
「かわばたさん……あ、ん!」
 優しくとんとんと奥を突けば、徳田はまつ毛を震わせて、そこへ涙を纏わせた。その一滴すら逃したくないと、目尻に、口元に、何度も唇を寄せる。こみ上げるのは切羽詰まった飢餓感ではなかった。愛しい、愛しいとそればかりが暖かく胸を満たしていた。
「――ッ!」
 絶頂はより深く、より穏やかだった。
 はふ、と疲れを追い出すようなため息に、川端は今度ばかりは欲のない口付けを送った。腕の中で、ここちよい疲労感に促され、徳田はふたたび瞼を下ろした。
 朝を迎えるのは、もう少し後で構わないだろう。

 

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