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藤のやどり/賀茂参

――奥山の 声なつかしく 蔦這わす……――

 

 経験したことのないものをいかに書くか。それは文筆家の永遠の命題といっても差し支えないだろう。限りある生で全てを見聞きするのは土台無理な話であり、常に想像力を巡らせながら書く、それは腕の見せ所でもある。

 とはいえ、もし「それ」が経験できるものであれば――やってみるに越したことはない。

 しかして藤村は友人の秋声を丸め込、否、口説き落とし。あれやこれやの得難い一夜を過ごし。

朝がきた。

 

 起き抜けにもぞもぞと体を動かすと敷布の隙間から早朝の空気が入り込んで、ぬるく湿った肌がぶるりと震えた。小さくくしゃみをすると、一つ布団に寝ていた友人がぎゅっと眉間を寄せたのちゆっくりと瞼を開いた。焦点の合わない瞳に「おはよう」と声を掛ける。ついでに、額に張り付いた前髪も拭ってやる。いつもはさらさらと流れる髪も、今朝は汗や、涙やそれ以外のもので湿り気を帯びていた。

 ゆうに三呼吸分は戸惑い気味にこちらを見つめていた瞳に理性が宿る。同時に、羞恥のあまりの赤面。これは昨晩でもなかったことだ。実に興味深い。

「………………藤村…………今、記憶が蘇ったんだけど、昨晩僕は君と、その、」

「うん。僕が秋声を酔わせて口説いて、気が大きくなった秋声が帯を解いてくれてそのまま」

「うわあやめろ言わないで!!」

 思わず大仰なしぐさで頭を抱えた秋声が変な姿勢のままでうっと呻く。これはもしや、と藤村は枕元の帳面を引き寄せた。

「もしかして身体に違和感がある? どこがどんなふうに?」

「どんなって……腰から下が鉛みたいに重くてちょっと動かすたびに昨晩の感覚を思い出、ってああもう、言わせないでくれよ……」

 どんな感覚か非常に興味が湧いたが、赤い目で睨まれて諦める。あまり苛めては可哀そうだ。

(苛めたわけじゃないけど)

 漠然と昨晩のあれこれを思い出す。友人としては有り得ない、はだけた素肌がぴっちりと合わさる距離。劣情に塗れて絡めあった視線。指と指、肉と肉の間を隙間なく埋めて。果てた後にそのまま最低限の身繕いはしたけれど風呂に行く気力も使い果たして眠り込み。

 そして朝を迎えた。

「……まあ、やっちゃったものは仕方ないよね……」

 深いため息をついた秋声がのろのろと身を起こして、水差しと何か拭くもの、と辺りを見回す。

 なんというか。

「一夜の過ちの後にしては随分あっさりしてるね」

「同衾した相手に事後の感想を求める奴に言われたくないよ。まあ……そんな風に付き合える君とだから、この機に肌を重ねてもいいと思ったのだけれど」

 困ったように秋声が笑う。その笑顔がずっと好きだった。燃えるような恋情とは違う、ただ、仔猫がお気に入りの鞠にじゃれつくように、自分の腕の中にこの笑顔を囲って堪能したいと思ったのだ。

 

 昨夜の想いを遂げた瞬間を思い出す。お互い初めての、少なくともこの身体では初めての同衾で不如意なこともあり、後半はほとんど意地で成したようなものだった。あだめいた雰囲気も失せてただ熱をようよう保って成し遂げて。 最後にほう、と同時ため息をついて、それが何だか大層愉快でお互い声を上げて笑ってしまって、どちらともなく唇を寄せた。

 一番最初に、理屈を捏ねて誘いをかけた時とは違う、温かくて気持ちいい感触だった。

 一夜を共にした今でも、これが友情か恋情か分からない。そもそも今の自分たちがそんな真っ当な感情を持つモノなのかも怪しい。

 それでも、この限られた生の中で秋声と熱を分け合えたのは、藤村にとって得難い幸福だ。

 

 腰を庇いながら半身を起こす秋声を手伝ってやりながら、藤村は部屋着の前を留めて立ち上がった。

「朝食はここへ持ってきた方が良さそうだね。何か食べたいものはある?」

「そうしてくれると助かるよ、今は流石に歩けなさそうだ。何か腹にたまる……うどんか定食が食べたい」

 およそ色気のない注文だが、そういうところが自分達らしいと思う。

 鏡花や紅葉先生に知られたら面倒そうだとこぼす秋声の頬にかがんで触れる。何、とこちらを見つめるその耳元に、唇を寄せてそっと囁く。

 推敲しない言葉を紡ぐのは性に合わないが、こればかりはこの感情のままに告げる句かと思ったので。

 

 眼を丸くした秋声がおかしそうに笑った。「ああ、きぬぎぬの文か。でも、下の句がないよ」

「それは秋声が考えてよ。僕は和歌は不得手だし、二人とも公達なんだから半分こしよう」

 型破りな提案にしょうがないなあ、とため息をついて秋声は抽斗から文具を取り出した。

「僕は詩は得意じゃないんだけど。……朝食はやっぱりうどんがいいな。煮込んであるやつ。その間に考えておくから」

 その代わり返歌も一緒に考えてよ、と注文をつける友人に頷いて、藤村は廊下に足を向けた。

「そうそう、言い忘れてたけどさっきの。僕は――過ちだなんて思ってないからね」

 背後から声が掛ける。え、と振り向くも秋声は帳面に目を落としたままだ。ただ、髪をかけた耳がわずかに赤みを帯びているのが分かった。

「うん――僕もだよ」

 返事を待たずに部屋を出る。お互い少し、熱を冷ます時間が必要なようだ。

 他の文豪たちの目を盗んで朝食を整え、部屋に戻るのはもう少し先のこと。生真面目な友人から下の句を送られるのも、その先のことだ。

 

――藤を臥所(ふしど)と 定め鳴くべし……――

 

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