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かいなの檻/ぐさ

 司書室に血相を変えて飛び込んで来た横光利一を見て、珍しいこともあるものだ、と徳田秋声は彼とは反対に暢気に考えていた。彼がこんなに慌てているのを目にするのはこれが初めてだった。何かあったのだろうか。師匠である菊池寛の尻に火がつこうが冷静に対処する利一がここまで動転しているのだから、重大事かもしれない。書類と向き合っていた秋声は、ここでようやく顔を上げて利一と、立ち上がった司書に目を遣った。

 しかし、利一の口から「川端が、」という言葉が飛び出した時点で、秋声の身体は強張ってしまった。あの夕焼け色の真っ直ぐな瞳を思い出し、なんとも言えないむず痒さが走る。次いで、少しの罪悪感。決して晴れることのない罪の意識が、彼の姿を見、声を聞く度に秋声を苛んでいた。

「徳田さん」

 名を呼ばれ、はっと我に返る。気づけば司書は自身の机の前から抜け出し、徳田の傍に立っていた。

「少し補修室まで。誰か来たら取次を、よろしくお願いします」

 それだけ言うと、司書は利一と連れ立って出て行ってしまった。結局何があったのかは訊き損ねてしまったが、恐らく彼──川端康成の身に何かが起こったのだろう。そういえば今日、白鳥と川端さんは同じ会派だったな、と思い起こす。業務が終われば白鳥に聞いてみることにしようと考えて、再び書類に目を通そうとした矢先、コンコン、と素早く二回ドアが叩かれた。反射的に返事をするが、司書の不在を告げなければならないことに気づいた秋声は、「待った」と声を出したが、それより早く戸が開いた。

「あれ、白鳥じゃないか」

「……司書はいないのか」

 入ってきたのはたった今思い浮かべていた正宗白鳥その人で、秋声はぽかんと口を開けた。対する白鳥は司書室の中をさっと一瞥し、すぐさま戻ろうとする。それを引き止めようと彼の手首をはっしと掴んだ。

「待ってよ。今、司書さんは横光さんと一緒に補修室へ行ってしまったけれど、用があるなら僕が聞くよ」

「……ふん。ならば、俺がここに来た理由はなくなったという訳だ」

「え、ちょっと。何勝手に自己完結してるのさ」

 なおも去ろうとする白鳥を必死に止めると、彼はあからさまな溜息を吐いて、秋声をちらりと見遣った。

「そもそも、お前は今までここにいたんだろう。司書から何か聞いていないのか」

「うん。内容までは聞いていなくて。というか、白鳥だって司書さんとすれ違ったりしなかったのかい」

「俺は補修が終わってから、機を見て今日の潜書についての報告をしようと思っていた。司書が向かった補修室にいる、そいつに関する報告をな」

 珍しくよく喋る白鳥の言葉の端々に、一見普段通りだが僅かに焦りが滲んでいるのがわかり秋声は眉を顰める。やはりいつもの白鳥らしくない。

「川端さんに、何かあったの」

 尋ねれば白鳥は、見た方が早いと秋声の手首を掴み返し引っ張っていった。司書室を留守にするのは気が引けたが、強引に連れて行かれてしまっているのだから不可抗力だ。司書にはそう言い訳することにした。

 真っ直ぐに伸びる廊下を渡って、補修室は食堂と潜書室を過ぎた突き当たりにある。この三つは有碍書から戻ってきた文豪たちが必ず利用する場所なので一箇所に集中しているが、その分人の出入りが多く、常に騒がしく休めるものも休めないのが現状だ。眠ってしまえば気にならないが、食堂で喧嘩や酒呑みのどんちゃん騒ぎが始まってしまうと厄介なので、そういった騒ぎを起こしそうな人物には予め注意をしている。もちろんそれだけで防ぎきれる訳もなく、眠りに就けない手負いの文豪がふらふらと自室に戻る様も何度か見ている秋声としては、補修室の移転もやむなしと考えていた。自分が兄弟子との口論によりその一因になっているとは、知りもしないのだったが。

 しかし、ちょうど日が沈む前の時間帯だからか、食堂はがらんとしていた。時間を問わず日がな酒を呑んでいる者たちも、今日は自室に引き上げているのか姿はなかった。だが、補修室の戸の前に立ったところで、中に複数の──少なくとも利用者以外が数人集まっている気配を察した。康成や鴎外はともかくとして、司書、利一……それ以外に、誰か別の話し声も聞こえる。重く暗いその声音に、秋声は入るべきかどうか一瞬躊躇した。しかし白鳥はそんなことを気にも留めずにドアを無遠慮に開いた。

「司書、報告があったが、そいつを見れば判るだろう」

 白鳥は顎で寝台を指し示した。そこには上体を起こし横たわった康成がいた。寝台の傍にある椅子に腰掛けていた司書は、白鳥の目を見て頷く。そしてその後ろにいる秋声を見つけると、ああ、と吐息のような声を漏らした。

「連れて来たんですか、正宗さん。彼は助手業務中だったんですけど」

「こいつが知りたいというから連れて来たまでだ。仕事が山積みになっている訳でもないだろう」

 司書と白鳥のやり取りを後目に、秋声の視線は康成に注がれていた。今まで補修を受けていたものらしく、簡易的な着流しに身を包んだ彼は、いつもと何ら変わらないように見えた。

 あまりまじまじと見すぎたのか、康成のあの瞳も秋声に向けられる。ばっちりと視線がかち合ってしまい、秋声は思わず目を逸らしてしまった。それでもなお自分を凝視してくる彼に、居た堪れなさや気恥しさを感じた。

「……徳田さん」

 見かねた利一が秋声に声をかける。彼の顔色は良くない。先程司書室にやって来たときから、ずっと。盟友である康成のことを心配している──にしても、秋声の目から見れば何ともなさそうなのに、ここまで蒼白なのも不思議だ。川端さんはどうしたんだい、と小声で尋ねると、利一の隣に控えていた寛が答えた。

「ちょっと近づいてみりゃ分かりますよ」

 秋声に対してではないのだろうが、酷く顔をしかめている彼に気圧され、そろそろと康成に近寄る。「徳田さん」親愛の情が籠る声で呼ばれると、ツキンと胸が痛んだ。やはり司書室に引き返そうかとも思ったが、ここまで来たのに帰るのも申し訳ない。

 気が引けるが、寝台の上の康成を検分し、そこであることに気がついた。墨色の着流しでは判りにくいが、腕の部分に違和感がある。布団に肘から下が隠されているものと思っていたが、どうも違うようだ。遠慮がちに捲っても、と訊くと彼は小さく首肯した。真白の布団を剥がしても、そこにはただ彼の下半身があるばかりで。いよいよ不気味になってその腕を掴む。

 だが、欲しかった硬い肉と骨の感覚は得られず、布をぎゅうと握りしめただけだった。

 予想と現実の違いに、脳が混乱する。康成の顔と、掴んだ袖とを見比べる。彼は瞼を伏せ、身体を捻った。反対の腕を差し出すように。まさか、と思いそちらにも手を伸ばせば、同じく頼りない布だけの感触。腹の底が冷たくなる。喉が震えるままに司書を呼ぶ。

「司書さん、これは、どういうこと。補修は」

「形式的には完了したことになってます。ただ、徳田さんもわかるでしょ。これは初めての事態で、解決には時間がかかります」

 わかっている。ここに一番初めに来たのは自分で、その自分が見たことのない異例は、彼にだってわからないということくらい。それでも、あまりにショッキングな光景に、問わずにはいられなかった。

 しかし当の康成本人は事もなげな様子で、むしろどこか嬉しそうにさえ見える。全く危機感のないその表情に、こんなに僕が取り乱しているというのに、というやり場のない苛立ちが沸き起こる。それをいち早く察した利一は、慌てて康成のフォローに回った。

「徳田さん、川端は徳田さんが近くに来てくださったことに少し浮かれていまして、決してこの状況を悲観していない訳では」

「……この手をすり抜けてしまう秋風が、私に吹きつけたというだけでも、僥倖……」

「こら、川端! そんなことを言っている場合ではない!」

 利一の鋭い叱責が飛ぶが、正直なところ、今の発言の意味がさっぱりわからなかった。怒る気も削がれて、すっと康成のもとから離れる。

「……まあ、何にせよ、近いうちに君が解決策を見つけてくれるんだろう、司書さん。にしたって、何で両腕を失うようなことに」

「絶不調の獣使いにやられた」

 入口の近くで黙っていた白鳥が、ここで口を挟んだ。先の潜書で一部始終を見ていたのだという。

「斬り込んだところ、左腕を獣に食われ、身動きが取れなくなったのでそれを自ら肩から切り落とした。思い切った行動だったが、獣から離れた瞬間に獣使いの鞭が残った右腕に絡んで縊り落とした。後は俺達で倒したが、今回は全員かなりの侵蝕を負った」

 これが事の顛末だ、と白鳥は司書の方を向いた。なるほど、会派筆頭としての報告も兼ねての説明であったらしい。

「……私の、力量不足で……」

 頭を下げる康成に、白鳥は何故謝る、と告げた。

「そいつも、あの獣には苦労させられたらしいからな。弓使いのくせに、前方に飛び出して鏃で突き刺したり」

「ちょ、ちょっと白鳥。何で君がそれを知ってるのさ」

 自分が『破戒』に潜書したときの愚行を論われ、秋声は焦って問いただした。聞けば、秋声と同会派の小林多喜二が話の種としてときどき人に教えているらしい。あまりそういった席には参加しない白鳥でさえ知っているのだから、巡り巡って既に図書館中に広まっているかもしれない。多喜二にはあまり口外せぬよう言っておかなければ、と頭を抱えた横で、康成はきょとんと目を見開き、薄く笑った。あまり見ることのないその表情に、秋声は呆気に取られ、同時に胸の痛みがまた襲った。どんなことをしようとも尊敬の眼差しを向けてくる彼に辟易としてしまう。

「とにかく、俺もどうにか色々試してみますが、有効打が出るのはまだ先だと思ってもらった方がいいですね。それまでは両腕がない生活は不便だと思いますし、誰か手伝ってくれる方を傍に置いておきたいんですが」

「ならば、手前が」

 当然の如く手を挙げて名乗り出たのはもちろん利一であった。司書も異論はなく、わかっていたというように頷く。しかし、と司書は続けた。

「横光さんにはこれまでの通り通常業務もこなしてもらうので、その間に代わりを務める方が必要になります。で、その代わりを」

 一息おいて、司書はにっこりと破顔した。とてつもなく嫌な予感がする。秋声は耳を塞ぎたいような衝動に駆られたが、予感は果たして的中した。

「徳田さんにお願いしたいです」

 嫌だ! と声を張り上げて拒絶したかったが、今まさに隣に康成がいることでその叫びは飲み込まれた。深く息を吸って、吐いて、きわめて冷静に取り繕う。

「……どうして? 僕と川端さんは、普段からあまり付き合いがないけれど」

「だからこそ、ですよ。川端さん、徳田さんとお話がしたいって以前ぼやいてましたから。川端さんがぼやくって相当ですよ、多分」

 確かに彼のことを避け続けてきた自覚はある。気まずさやら何やらで、長く近くにいることが耐えられず、それならまだ兄弟子の方が、とも思い逃げてしまったこともある。康成のことを傷つけることもわかっていたが、それよりも記憶がない自分と話すことの方が彼をより苦しめるのではないか、と漠然と思ってしまったからだ。それなのに、長いこと忌避してきた彼との深い関わり合いを、こんな風に強制されるとは。どうにか阻止できないかと思い、一応康成の意思も汲んでみようと声をかける寸前。

「よかったな、川端! 徳田さんに世話をしてもらえるなど、なかなかあったことではないぞ。話ができるといいな」

 利一が喜色満面の笑みで康成にそう言った。秋声の動きはぴたりと止まり、利一をぎちぎちと見る。彼は屈託のない笑顔を秋声に向け、「よろしくお願いします、徳田さん」と言った。長い付き合いの利一のことは、秋声も少なからず好ましく思っていたので、その純粋な好意を邪険にすることもできず、ああ、と肯定とも悲嘆ともとれる音を喉から漏らした。事情をそれとなく知る寛だけが、僅かに肩を震わせていた。後で覚えておきなよ、菊池さん。

 

「司書さん、殴っていいかい」

「ダメですよ、そんなことしたら有碍書に一人だけぶち込みます」

「リスクが高すぎる……いや、今ならそっちの方がいいかもしれない……」

 いつまでも補修室を占領するのも主である森鴎外に悪いので、康成を利一に預けて司書室へと戻る道すがら、司書と並んで歩く秋声はしきりに溜息を零していた。本人がいる前で宣言することによって退路を絶ったやり口があまりに汚くて、そればかりをぐちぐち責める秋声に、司書はいい加減大人気ないと一声発した。

「一回引き受けたんですから、もうやるほかないですよ。川端さんだって喜んでましたし、ちょっとくらい話してあげたらどうですか」

「でも……でもさ……! じゃあ今まで避けてきた僕の生活はどうなるんだい……!」

「これからも避け続けられるとは限らないでしょ。いい加減向き合うべきですよ、徳田さん」

 記憶が欠けているのはどうにもできないので、と淡白に終わらせてさっさと司書室へ入ってしまう彼の背を追う。どうしてこんな酷い人のもとで働いているんだろうか。そんな考えも、司書に渡された資料に目を通すことで霧散してしまった。真面目な秋声は仕事にも真剣だから、こうすれば大人しくなると司書もこの数年でよく解っていた。

 手渡されたその紙切れには、数人の文豪の名前と状態、それから有碍書の書名が記されていた。すっかりお馴染みになってしまったそれは、翌日の潜書予定表だ。助手はこれに目を通し、許可印を押すのが役目だ。手馴れたものだ、と秋声は助手専用の机に置いてある「徳田」の判子と朱肉を手に取り、ぽんと捺印した。そして司書に返そうとしたところで、ある名前が目に留まり、思わず大きな声を上げた。

「あっ! ち、ちょっと、司書さん……!」

「ようやく気づいたんですか。まあでも、許可はもらっちゃったので」

 明日の午前、『歯車』への潜書を行う会派。その中に「横光利一」と無機質な文字が印字されていた。これはつまり、明日の午前は図書館に利一がいないことになり、それはすなわち、康成の世話をする者がいないということであり。変な汗が背筋をダラダラと伝う。手の中の書類が急に恐ろしいものに見え始めた。

「ちゃんと見ない徳田さんが悪いんですよ。まあ、そういう訳で、明日、お願いしますね」

「き、君……! 本当に最低だよ!」

 秋声の怒号を誰が耳にしたか。ともあれ、康成と秋声、それから利一にとって日常ではない夜は、こうして更けていくのであった。

 

 いっそふて寝を決め込んでしまおうかと思った。それなのに小鳥の涼やかな鳴き声はだんだんとクリアに聴こえ、体内時計は正確すぎるほどに起床の合図を告げた。一度目が覚めてしまうと、二度寝をできる質でもない秋声は、布団から起き上がり長々と溜息を吐いた。昨日から数えきれないくらいに零したそれは、カーテンの隙間から差し込む朝の柔らかい陽射しに溶けて消えてしまう。

 康成はもう起きている頃だろうか。彼の生活リズムもよく把握していない秋声は、これからの自身の行動全てに康成が関与することに頭痛がした。迷惑だとか鬱陶しいとか、そんなことではなく、彼のあの眼に見つめられるのが怖かった。しかもそれを毎時やられるとなれば、いつ音を上げてしまうか。そこで昨夜の司書の言葉を思い出す。

 ──いい加減向き合うべきですよ、徳田さん。

 そうなのかもしれない。あまりに彼を退けすぎた、その罰が下されたのかもしれない。下したのは司書だが。

 ともかく、一度きちんと話し合って伝えるべきだろう。自分には康成に関する記憶がなくて、その尊敬にも応えられないということ。矮小な自分を見透かすようなその目が、恐ろしいということ。

 考え事をしながらも手は当たり前に動き、気づけば身支度が終わっていた。足が重いが、致し方ない。個人的な感情を抜きにすれば、両腕が失われた彼が困り果てているだろうことが想像され、ならば手伝わなければという世話焼きの精神が動いた。しばらくは、この不安定な気持ちにも蓋をしておこう。そう決めて、秋声は康成の部屋へと向かった。

 一番初めの交からか、助手を任されることの多い秋声は、届いた手紙を各部屋に配り歩く仕事も慣れたもので、それ故各人の部屋番号もある場所もあらかた覚えてしまった。人が増えるにつれて上を下への大移動を行う者もあったが、今はそれも落ち着いて、しっかりそれぞれの場所を記憶している。康成の部屋は秋声と同じ二階の西側にあった。秋声は東の端で、周りを佐藤春夫や幸田露伴に囲まれた比較的穏やかな生活が送れる隣人たちだが、康成の右隣は利一、左隣は梶井基次郎、さらに斜向かいは三好達治、その隣に織田作之助の部屋があるという騒がしい区画である。この中で生活できている康成も利一も(ついでに達治も)すごいなとは思うが、作之助によると「川端さん、大阪出身でっしゃろ。ほんで梶井さんと三好クンもやから、結構話弾むねんな」と笑っていた。その言葉の通り、ここの面子は案外うまくやっているらしかった。

 目当ての部屋の前、少し緊張するものの、それを面に出さないように二回ノックする。「入るよ、川端さん」手がない状態では開けることもできないだろうと結論付け、ドアノブを捻る。

 何回か前までは来たことがあっても、入るのは初めてだった。嗅ぎなれた畳の匂いが鼻腔をくすぐる。しかし少しだけ暗い室内に目を通すと、備え付けのカーテンが開かれていないことに気がついた。いかにもといった和室に生成りのそれがかかっているのはどうにも違和感があった。とにかく開けてしまおうとそちらへ踏み込むと、

「徳田さん」

 背後から突如声がかかり、大袈裟に肩を跳ねさせてしまった。見ると、康成が文机に寄りかかり座り込んでいた。昨日と同じ着流しのまま、変に薄っぺらい袖口も変わらないままだ。

「あ、えっと、暗いからカーテンを、ね、ごめん」

 じっと見つめられると悪いことをしたような気分になり、慌てて弁明してしまう。それ以上目を合わせることはできず、カーテンに向き直り手早くまとめた。だんだん高く昇ってきた朝日が部屋を照らした。この窓は南向きだから、昼にはもっと暖かくなるだろう、と暢気なことを考える。しかし背に突き刺さる視線にそれどころではないと首を振った。

「おはよう、川端さん。今朝は横光さんが潜書だから、僕が手伝うよ。不快かもしれないけど、これも仕事だから、我慢してほしい」

 口早にそう告げると、康成は一拍遅れて首を傾げた。さらりと練色の髪が流れる。陽光を反射して輝くそれが、何故だかとても眩しく思われた。

「……徳田さん」

「さ、じゃあまずは朝ご飯にしようか。どうしよう、食堂に行くのはきっと大変だよね」

 彼の言葉を遮り、矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。やっぱり、直接彼の口から何かを聞くのは怖い。後回しにしても辛くなるだけだとわかっていても、どうしても逃げずにはいられない自分の臆病さに嫌気が差した。

 食堂から何か食べられそうなものを持ってこようとノブに再び手をかけた瞬間、勝手にドアが開く。驚いて後ろへ退ると、新美南吉と宮沢賢治が盆を持ってにこにこしながら立っていた。

「お邪魔しまあす、川端さん」

「お料理、持ってきたよ!」

「君たち……どうして?」

 思ってもみなかった来客に秋声が尋ねると、二人はくすくすと笑って秋声を見上げた。

「司書さんがね、川端さんが大変だからお手伝いしてあげてって」

「ご飯を食べるのも大変だと思うから、持って行くといいよって言われたんだ」

 手袋をはめた手が持つ盆の上には、湯気が立つ粥とコップ、そしてスプーンが、柔らかそうな手が持つ盆の上には、今朝のメニューであるオムレツと食器、もう一つの盆と同じコップがのせられていた。

「こっちは川端さんのだよ」

 粥がのった方の盆を康成の文机に置き、南吉は賢治に場を譲った。賢治は文机の空いたスペースにその盆を置いて、可愛らしい笑顔を秋声に向けた。

「ちょっと大変だけど、二人で食べてね」

「それじゃあ、ごゆっくりー!」

 ぱたぱたと駆けて出て行ってしまった賢治と南吉の背中をまるで台風が来たあとのようにぽかんと見つめていた秋声は、かけられた言葉を脳内で反芻していた。ごゆっくり。ごゆっくりって、何だ。

「……若芽の伸びやかなことは、かくも素晴らしいものですね」

 呟いた康成の声にようやく正体を取り戻した秋声ははっと振り返る。彼は静かな夕陽色の目に柔らかい光を留めていた。

「……徳田さん。ここでは些か、食べにくいでしょう。来客用の卓袱台が押入れにありますので、そちらを」

 ちらりと自身の腕を見遣り、次いで押入れを目で指し示す康成に、秋声は何か釈然としない心持ちながらもわかったと頷いた。卓袱台を引き出し、その上に盆を移す。膝立ちで擦り歩く康成は見ていて痛々しく、やはりできることならしてあげたいと思うのだったが、棘のような弱い感情が邪魔をしているのだった。

「いただきます」

「……いただきます」

 図書館のオムレツは好物だ。しかし、今は目の前に手負いの後輩がいる。出来たてを食べることはまず諦めて、相手の前にあるスプーンを手に取った。

「どうしてお粥なんだろうね。まあ、異常があれば食事も様子を見てほしいと思うか……」

 熱を飛ばすように粥を掻き混ぜながら、そう独りごちる。康成は何をも返さず、ただ秋声の手元をじっと見ていた。そんなにお腹が空いたのだろうか、と秋声は少し心配になった。ご飯は普通でもいいかもしれない。

 そろそろいいだろうと粥を掬い、息を吹きかける。そして康成にスプーンを向けた。

「はい、川端さん、口開けて。あー……」

 そこまで言って、はたと気がついた。

 ──これ、見られたらまずい状況なんじゃ……。

 今のこの行為がとんでもなく恥ずかしいと自覚した秋声の顔が、たちまちぼっと赤くなる。しかし康成はそんなことにも構わず、ぱくりとスプーンをくわえた。しっかり噛んで、嚥下する。そんな仕種にさえどこか気品を感じてしまい、色々な意味で混乱した。

「……美味しいです」

 そう言って、康成は薄く微笑んだ。昨日見た笑顔と同じように、花が綻ぶように。秋声も昨日と同じく胸の痛みを覚えた。これが一体何なのか、彼への罪悪なのか、考えてみてもやっぱりわからなかった。

 無言でもう一口を求める彼に、秋声は羞恥を押し殺して掬い、食べさせを繰り返す。これではあの二人が言った「ごゆっくり」の意味が変わってきてしまうではないか。いや、もしかするとこれを見越してその語句を発したのか? 訳がわからなくなってきた秋声は、もはや無心に機械的な動作を繰り返す外なかった。

「徳田さん。徳田さんのオムレツが、冷めてしまいます」

 しかしかけられた声に我に返り、言われるままに自分の前にあるオムレツを見てみると、ほかほかと立ち上っていた湯気はすっかりなくなってしまっていた。対して、康成の粥はもうほとんど平らげられていた。

「そ、そうだね。僕もいただくよ」

 スプーンを半ば投げるように置き、秋声は自分の食器を手に取った。冷めてもオムレツは美味しく、けれど食べている様子を眺める康成のせいで味などほとんどわからなかった。ただ、その視線がどこか愉しげであることばかりが印象に残った。

 

「食べ終わった?」

 ひょこっと再び顔を出したのは、先程と変わらず南吉たちだった。食事を終えて手を合わせてから五分ほど経ったくらいで、盆を返しに行こうと思っていた秋声は二人に頭を下げた。

「何から何まで、わざわざごめんね」

「大丈夫、川端さんのお手伝いだもん」

「川端さん、お大事にね。今、司書さんが頑張ってるから」

 盆を受け取り帰って行った二人を見送り、一息吐いた。ただ飯を食うという行為のみで、こんなに疲れると思わなかった。介護のように手助けするだけならまだしも、そこにおかしな気遣いと不必要な羞恥が混じったのだ。だからこそ、無邪気な賢治と南吉の姿にとても癒されたというのが本音だ。

「二人とも、本当にいい子たちだねえ。お手伝いまでしてくれてさ。川端さんもそう思わないかい」

 目の前の相手が自身を疲弊させた張本人だということも忘れ、秋声はほくほくとした表情のままそう問う。康成は緩慢に頷き、ですが、と答えた。

「律儀に、私に付き合ってくださる貴方も……私は、非常に好ましく思います……」

 またしても憧憬が端々に滲む言葉に、秋声はぐっと息を詰まらせた。その言葉に見合うほど僕は素晴らしい人間じゃない、という卑下と、そこまで褒め称えてくれることの恥ずかしさが同時に襲い来る。様子の変わった秋声に構わず、康成は続けた。

「……利一から、今日の午前は徳田さんがついてくれると、今朝お聞きしました。利一の代わりでも、私には、貴方がそれを引き受けてくれた、そのことが身に染みるほど嬉しく……」

 本当に嬉しそうに話す康成を眺めながら秋声は、今日の川端さんよく喋るなあ、と現実逃避のようなことを考えていた。常ならば視線で他人を縫い留める彼が、どうしてこれほどまでに。やはり自分のことだからなのか。そうだとは簡単に思えないくらいには、秋声の自己肯定感は低かった。

「ですから、徳田さん」

 康成が何かを言いかけたそのとき、ドンドン、とノックとは呼べない音量のノック音が聞こえ、康成は科白を引っ込めた。彼も秋声も返事をする前にドアが開いた。

「よっ、邪魔するぜ。ああ、徳田さん。川端がお世話になって」

 陽気に部屋に入り込んできたのは、康成の師である寛だった。おおよそ康成のことを心配して来てくれたのだろうが、秋声は昨晩の寛の無礼な行動を覚えていた。キッと眦を吊り上げて寛を睨む。

「菊池さん……昨日は僕のことを笑っていたみたいだったけど」

「ああいや、別に笑うつもりじゃなかったんです。ただ、司書も一矢報いたなあと思いまして」

「僕はむしろ一杯食わされたよ……っていうか、一矢報いたいのは僕の方なんだけど」

 間に挟まれた康成はいまいち何のことかわかっていない顔をしていた。とは言っても、いつもの無表情とほとんど変わらず、その感情の機微を読み取れるのは寛か利一くらいのものであったが。

 寛は康成の練色の頭をわしわしと掻き混ぜた。よくあることなのか、康成も何も言わずにそれを受け入れている。

「ま、きっとちょっとの辛抱ですし、こいつに付き合ってやってください、徳田さん」

「承諾した以上はそうするさ。川端さんに嫌な思いをさせていないか、ちょっと不安だけどね」

 そう返すと、寛は目をぱちぱちと瞬かせ、次の瞬間康成の肩を引っ掴んで後ろを向かせた。「ちょっといいですか」断りを入れて、寛と康成は何かを話し始めた。自分には聞かせられない話なのだろうか。それとも何かおかしなことを言ってしまっただろうか。だからと言って気を回す性質ではない──特に寛に対しては──秋声は首を傾げるだけだったが、やがて話が終わったのか、康成の身体がこちらに向き直った。振り返る寛はどうしてかひどく神妙な面持ちをしていた。

「徳田さん。俺はこれで失礼しますんで、川端と色々話してやってください。こいつ、これで結構寂しがってたんで。それじゃ」

「えっ、ちょっと。どうしたんだい急に」

 引き留める間もなくさっさと出て行ってしまった妙な態度の寛に、秋声はますます首を捻った。嵐のように去った彼を追いかけるのも何か違う気がして、康成をちらりと盗み見る。その目は珍しく秋声を凝視するでもなく、ぼんやりと足許を眺めている。

 こうやって見ると、やっぱり綺麗な顔してるなあ。見ているうちにそんな思いが浮かんできた。秋声の地味な顔より、康成の長いまつ毛が縁取る目やすっと通った鼻などの要素がより美しく見えることは請け合いだ。友人や兄弟子、師匠も整った顔立ちをしているが、康成のそれはまた違う美を湛えてそこにあった。あるいはその身に纏う雰囲気こそが彼をそう見せているのかもしれない。

 ふと、我に返る。不躾にも彼のことをしげしげと観察してしまった。彼の物言わぬ凝視とは違い、下心が透けてしまいそうな気がして、秋声は慌てて目を逸らした。しかし、時すでに遅し。康成の眸はばっちりと秋声を捉えていた。何も言われていないのに秋声は首をぶんぶんと横に振った。

「ち、違うんだよ川端さん。あの、別に君の顔に見蕩れてたとか、そういう訳じゃなくてね」

「徳田さんの」

 被せるように発せられたその声に、はっと息を飲む。怒っているだろうか。恐る恐る顔を上げる。しかし、彼は。

「徳田さんの顔を、しっかりと見たのは初めてです」

 晴々とした、それでいてどこか寂しそうな笑みを口許に湛えていた。その一言で、秋声は自分の罪深さを知った。彼と目が合いそうになると、露骨なまでに逸らしてしまっていたせいで、彼は秋声の顔を正面から見ることもかなわなかったのだ。今思えば、なんと酷なことをしてしまったのだろうか。いくら秋声が受け入れ難いといえども、彼は純粋に自分を敬仰していたのだから。その相手に冷遇されてしまって、こんなに穏やかでいられるものなのか。

「…………その、川端さん」

 何を言おうか迷って、迷って、秋声は彼の名を呼んだ。だが、康成はかぶりを振って秋声を止めた。次に来る言葉がわかっていたかのように。

「徳田さん。貴方さえ良ければ、私は貴方と再び縁を結びたいのです。今を生きる貴方と、言葉を交わしてみたい」

 正面切って真っ直ぐに、素直に告げる彼に、秋声の心臓が一際大きく震えた。その熱視線にこもる感情が容易に読み取れてしまって、秋声はやはり後ろめたさを覚えた。彼のことをさっぱり忘れてしまっている自分と、それでもなお関わりたいという気持ちは到底理解できるものではなかった。けれど、これからしばらくは康成の面倒を見ることになるのだ。司書が解決策を見つけるまでの間、それがどれほどかはわからないが、短くないだろうことは予想がついた。それに、逃げてばかりではいられないのだ。司書も、おそらく寛も、康成との関係が改善することを望んでいる。こちらの一方的なわがままで、他人に迷惑をかけるべきではない。あの兄弟子とのようにはっきりした確執ではないのだから、きっと上手く折り合いをつけられるはずだ。そんな希望的観測で、溢れ出る負の感情に蓋をして、健気な後輩に秋声は微笑んだ。

「……うん。今まで避けていてごめんよ。ちゃんと、話し合おう。僕の記憶がなくて、申し訳ないけれど」

「記憶など、ただの過去です。私たちには、今がありますから」

 ほとんど変化していない康成の表情に、さらに喜色が浮かぶのが秋声にもわかった。案外この人わかりやすいのかも、と意外に感じた秋声は、今度は控えめなノックに、しかし秋声は肩を跳ねさせた。康成と共にいると思考の海に沈んでしまい、感覚が溶けてしまう。

 康成がノックに返事をした。ゆっくりと開いた戸の向こうには利一が立っていた。潜書から帰ってきたようだ。聞けば補修も既に終わったとのことで、いつの間にそんなに時間が経っていたのかと驚かずにはいられなかった。

「ありがとうございました、徳田さん。あとは手前が引き継ぎますので、徳田さんはゆっくりなさってください」

「うん、お疲れ様」

 潜書帰りで疲れているかとも思ったが、利一の顔を見た瞬間に気を張っていた分の疲労がどっと押し寄せて、その場をすぐに譲った。自室に戻ろうかと入れ替わりで出て行こうとしたとき、背後で利一が感嘆の声を上げた。

「そうか、それは良かったな。ああ、徳田さん、明日は手前の潜書はないのですが、明後日は午後から予定があるので、お願いします。川端も喜んでいますので」

 またも日輪の如く晴れやかな笑顔に気圧され、機械のように頷いた秋声は、あれくらいの意思疎通ができなければ彼の相手は難しそうだ、と頭の端で思うのだった。

 

 翌朝。朝食を摂るべく食堂を訪れた秋声は、盆を手にした少年二人を目にした。彼らも秋声に気づいたらしく、元気に挨拶をしてくれた。

「秋声さん。昨日はどうだった? ちゃんとお話できた?」

 南吉に見上げられ、苦笑しながら秋声は答えた。

「ああ、まあ。ちゃんと、なのかどうかはわからないけど、これから話をしようって約束した」

「そっかあ。なら大丈夫だね。川端さんが寂しくないように、いっぱいお喋りしてあげてね」

 諭すような口ぶりに秋声がギクッと強張る。「行くよ、南吉!」声をかける賢治に返事をし、南吉は盆を持ち直してじゃあねと歩いて行った。立ち尽くした秋声は、大きな溜息を一つ吐いた。あんな子供の外見をした子にまで見透かされているとは、何だか恥ずかしくなってきた。

 ぼうっとしていると、肩をいきなり叩かれた。小気味よい音が鳴る。目を白黒させていると、笑い声が聞こえた。この声は、

「花袋……」

「なにボケっとしてんだ、秋声。朝飯、まだ食ってないんだろ? 一緒に食おうぜ」

 朝っぱらから溌剌とした笑顔を見せる田山花袋は、秋声にとって気兼ねなく本音を言い合える友人の一人で、そんな友人からの誘いとなれば頷かない理由はなかったが、その後ろに見えた人影が二つ返事に待ったをかけた。

「ちょっと待ってくれ。島崎、何で花袋の後ろに隠れてるんだい」

「あれ、ばれちゃった。秋声は相変わらず目敏いね」

 大して残念がってもいない様子でひょっこりと姿を現したのは、やはり秋声の友人の島崎藤村だったが、今はなるべく会いたくない相手だった。遅れて国木田独歩も合流し、秋声はげんなりした顔で三人をじろりと見た。

「君たち……、どうせ川端さんのことについて訊くつもりなんだろう?」

「ご名答。正確には、川端とお前のこと、だな」

「昨日はどれほど進展があったのか……ついでに、川端くんの状態も聞かせてもらうよ」

 前のめりになる独歩と藤村を宥める花袋がこの場の唯一の良心であった。とにもかくにもまず腹を満たすべきだという進言によって、四人はカウンターから天ぷらそばを受け取り席に着いた。

「と、いうことで」

「一口だけでも食べさせてくれ! 話はその後でするから」

「おっ、言ったな? 根掘り葉掘り聞かせてもらうぜ」

 全員で揃って合掌をし、そばを啜り始める。だが秋声の胸は重苦しいままで味なんてわかりやしなかった。どうして二日連続で味気ない食事をしなければならないのか、と泣き崩れたい気持ちになったが、悲観していても何も始まらないこともわかっていた。

 ほとんど同時に食べ終わったところで、藤村が楽しそうにメモと万年筆を懐から取り出した。独歩もメモを出す──と思いきや、手に握られていたのは銀色の細長い機械で、秋声は見慣れない物に首を傾げた。

「国木田、これ何だい」

「これはボイスレコーダーだ。取材内容を音声として記録できるやつだな。記事は正確さが第一だろ?」

「き、記事……って、君たち、この話を新聞に載せるつもりでいるの!?」

「こんな面白そうなネタを逃す訳ないよな、島崎」

「安心して、秋声。個人情報には十分気をつけるから」

「そういう問題じゃないだろう!」

 怒鳴ってみても全く効き目がない。かくなる上は、と隣の花袋の腕をひっ掴んで、二人を説得するよう頼んでみるしかない。そう思い口を開きかけたが、花袋の表情を見て途端に鼻白んだ。

「ごめん、秋声……。正直、オレも気になるっていうか、聞いてみたいっていうか……!」

「……っていうことで、今回は花袋もこっちの味方だよ。観念した?」

 あまりに悪役のような台詞が似合う藤村は、本物の悪魔に見えた。自分のことを詳らかにするのは好まないと知っていながら、それでも諦めない彼に折れてしまうのをわかっているのだ。そんな秋声への三人の共通認識は、チョロい、という言葉で片付いてしまった。

「はあ……わかったよ。でも、期待するほどのことはないからね」

 やっぱりチョロい秋声はしぶしぶ取材を受けた。藤村の暗く沈んだ目がいつになく輝く。口火を切ったのは国木田だった。

「じゃあ、昨日はどうだった? 川端と何したんだ」

「何って……二人で朝ご飯を食べて、少し話したよ」

「……それだけ?」

「うん」

 これが全てで、他に特筆すべきこともない。ありのままを伝えると、花袋が頭を抱えた。

「そんなことってあるのかよ! 美少女を前にしたときの俺より消極的じゃん!」

「自分が奥手だっていう認識はあったんだね」

「秋声! お前、気づいてないかもしれないけどな、川端は……」

「花袋、ストップだ。あまり喋りすぎるのも良くないぜ。言ったろ、個人情報の取り扱いには気をつけるって」

 何かを言おうとした花袋を独歩が止めた。気になる所で話を打ち切られてしまった秋声は釈然としない思いを抱えていたが、プライバシーに関わることなのだろうと忘れることにした。そこまで踏み入って詮索するつもりはないのだ。

「あ、でも、菊池さんが来たよ」

「彼はなんて?」

「川端さんと何か話をして、それから慌ただしく帰ってしまったよ。変な様子だったけど」

 藤村は手に持ったメモ帳に何を書くでもなく、そう、と一言だけ零して懐にしまった。どんな些細なことでも書き留めようとする彼には実に珍しい行動で、思わず目を疑ってしまった。

「まだ、記事にするほどじゃないね。僕が言うのも何だけど、もうちょっとコミュニケーションをとってあげたら?」

「本当に君に言われるのが癪なことを……、っていうか、君たちは何でそんなに僕をせっつくのさ。彼と話そうが話さまいが、僕の自由だろう?」

 フンと鼻を鳴らしてやると、三人は揃いも揃って嫌そうな顔をした。予想外の反応に、秋声は内心狼狽した。

「お前……、それ、本気で言ってるのか」

「秋声のことだから、大真面目に決まってるよ」

「徳田。お前が鈍いのはよーくわかったから、川端の相手はしてやれ。あいつ、あれで結構寂しがってるらしいぜ」

 寂しがってる。そういえば、先程の南吉も同じようなことを言っていた。これまで秋声の目には見えなかったが、昨日の言葉も、態度も、そう思わせるには十分だった。これはやはり自分が悪いのだろう。自覚があった秋声は、珍しく素直に謝った。

「……ごめん。確かに、避けてたのは僕のわがままだった。だから、昨日は彼ときちんと向き合う約束をしたんだ。今のままじゃなくて、ちょっとは改善できるように……」

「本当か! なんだ、それなら早く言えよ!」

 急にがばっと席を立ち、秋声の肩をばんばんと叩く花袋に驚き、秋声は目を白黒させた。心做しか、独歩と藤村の視線も柔らかくなった気がする。

「そっか、オレたちも一安心だよ。その調子で川端と仲良くやってくれよな!」

「え、うん……?」

 どこか奇妙な言い回しに秋声は違和感を覚えた。まるで康成の方の肩を持つような言い方だ。自分が知らない間に、花袋は康成と仲良くなっていたのだろうか。それで度々相談を受けていたのかもしれない。だとすれば、康成だけでなくこの底抜けに明るい友人にも迷惑をかけてしまったことになる。再三謝ると、花袋はいやに晴れやかな笑顔で「いーっていーって!」と答えるだけだった。

 気づけば他のテーブルで朝食を摂っていた者たちはとうに姿を消し、遅めの食事を摂ろうと現れる者が増え始めた。いつもは見ない顔ぶれがちらほら見受けられ、秋声はそろそろと席を立った。それとなく三人の予定を訊くと、花袋と独歩は潜書、藤村は今日の助手なのだという。共に盆を片付けに行く際、隣にぴっとりと並んだ藤村が秋声に囁いた。

「秋声。僕は秋声の観察眼は優れていると思っているし、尊敬しているよ。けど、秋声宛の感情にも、ちゃんと目を向けてあげてね」

 そのいまいちわからない助言に、秋声は曖昧にうんと頷いた。藤村はいつもの死んだ目でキロリと秋声を見たが、それだけだった。

 潜書を行う花袋と独歩とは食堂を出て別れ、司書室に行かなければならない藤村とは階段の前で別れた。藤村の言葉が胸に引っかかっていたが、自身が鈍感だと理解していない秋声は、それよりもまず目先のしなければならないことに意識を移してしまった。今日は高村さんの服のほつれを直して、それから新しい生地でも買いに行こうかな。すっかり手に馴染んだ縫い針の感覚を思い出しながら、秋声は自室に向かった。

 一方、潜書前の花袋と独歩はこんな会話をしていた。

「川端との仲、進展しそうで良かったなあ」

「司書の強引な解決方法のおかげだよ。あれがなけりゃ、徳田が川端と話すことだってなかっただろうしな」

「そろそろオレたちに刺さる視線も痛かったしなあ……」

 もちろん、そんな嘆きをちくちくと裁縫をする秋声が聞くはずもないのであった。

 

 翌日の昼、食堂で偶然一緒になった利一と昼食を摂った。川端さんは、と訊くと、司書の所に呼ばれているからそこで昼を食べるのだ、と言われた。

「司書さん、何か解決法見つけたのかな。あれから会っていないんだけど」

 ぼやくように言うと、利一はふるふると首を振った。

「まだ有効な手立てはないようです。ですが、腕がなくとも案外行動できることがわかってきて」

 一度立ってしまえば歩くことも困難ではないし、歩くことさえできればどこかに行けるから、付きっきりで介護の真似事をする必要はないのだと言う。話だけ聞けば普段の師よりもよっぽど手がかからないではないか。安心したのも束の間、牛めしの丼を置いて、利一は複雑な表情を見せた。

「そこで……徳田さん。今日の川端についてなのですが」

 彼は言いにくそうにもごもごと唇を動かし、やがて口をついて出るに任せた。

「風呂に、入れていただきたいのです」

 ふろ。風呂。言い淀んだにしてはあまりに日常的な単語に、秋声は目をぱちくりと瞬かせた。しかし、その非日常さに数瞬遅れて気づき、口からはつるりと「えっ」という困惑の一音が零れた。

「手前の潜書は夜なので、丁度風呂に入る時間に重なってしまうのです。徳田さんに頼むようなことではないとわかっているのですが……やはり、菊池さんにお願いするべきか……」

「ちょ、ちょっと待って。もうちょっと詳しく教えて」

 苦虫を噛み潰したような表情の利一に待ったをかける。確かに風呂となると肌を見せ合うことになり、未だ距離感が掴めていない自分と康成には容認し難いものだが。

「昨日と一昨日は、私たちは共に湯浴みをしまして。いつものことなのですが、司書さんには患部を刺激しないようにと言われましたので、浴槽には浸からず。もちろん川端は腕を使えないので、諸々の世話を手前がしていたのですが……そこまで徳田さんの手を煩わせる訳には……」

 つまり、本当の介護のようなことをしなければならないということだ。デリケートな部分もあるだろうし、だからこそ利一は秋声に頼むことに尻込みしているのかもしれない。秋声もできれば遠慮したかった。大浴場で何度か鉢合わせたことこそあっても、意図して一緒に入浴しようだなんて思わなかった相手に、いきなり体に触れてあれこれするなど、想像もつかなかった。だが、乗りかかった船だ、と秋声は思っていた。昨日の友人たちの言葉、そして一昨日の康成自身との約束。自分からも歩み寄っていかなければ、きっとこの膠着状態は打破できない。……その方法が風呂に入れることだとは、考えてもみなかったけれど。

 やはり麻雀中の菊池さんを引っ張って云々とぶつぶつ呟いている利一に、秋声はできるだけ優しい声音で言った。

「大丈夫、横光さん。やるよ。ちょっと雑かもしれないけど、そこは勘弁してほしいな。……それで、彼とも話をしてみようと思う」

「ほ、本当ですか! すみません、手前の我儘で……」

「困ったときはお互い様だよ。司書さんに言われたんだし、やることはやらなくちゃね」

 この優しい後輩のためにも、なんとか康成とのこじれた関係を解決せねばならない。秋声は改めて心に誓ったのだった。

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