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君は曙、蜜の味。/消炭 鳴

 ごうごうと唸る乾燥機の中では、白いシーツが一枚きり、竜巻に揉まれるように身をくねらせている。見ようによってはパン焼き器の中で捏ねられる生地のようでもあり、ひとたびそう思えば焼き上がったばかりの香ばしい匂いまでも想起させられて、たちまち腹の虫が騒ぎ出す。

 まだ食堂が開くまでには間があったはずだが、今朝のメニューは何だったろうか。すっかりパンとコーヒーの口になってしまった今、場合によっては出かけることになるだろう。服を着替えて、顔も洗って、髪ももう少しきちんと編み直して、それから。

 「よう寝とったもんなあ……」

 布団を抜け出してもぴくりとも動かなかった寝姿を思い出す。

 一晩眠れば回復するから平気、と本人は笑っていたけれど、小柄で若い外見の相手に無茶をさせてしまった居たたまれなさは、日付が変わったからといって薄れるものではない。ましてやもともと自分よりうんと歳上で、多少なりとも意識していた相手とあっては尚更だ。彼のぶんの朝食代を持ってやるくらいしないことには気が収まらない。

 財布の中身はどのくらい残っていただろうか、少しばかり気にしながら、回り続ける乾燥機に『使用中』『三十』の札を下げ、織田作之助はランドリールームを後にした。

 廊下に出れば、仕込み中らしい味噌汁の香りが鼻孔をくすぐる。これはこれで悪くないのだが、一度脳裏に蘇ってしまったバターの風味は、揺るぎなく頭の中に居座り続けている。ちょっと奮発して、トーストに蜂蜜をたっぷり掛けてもらうのも悪くない。焼きたてのトースト生地にかぶりつくなり、じゅわりとしみ出て口の中いっぱいに広がる重い甘み。食パンの熱で緩んで、気づけば皿の上に滴ってしまったのを、ちぎった耳の部分で拭っていただくのもまた一興というものだ。そしてすっかり甘ったるくなってしまった口を引き締める、ブラックコーヒーの苦味。

 そうこうしているうちに着いた部屋の前、『〇七八』のプレートが打ち付けられたドアのノブを、大きな音を立てないようにゆっくりと捻る。細く開けた隙間に猫のように滑り込む。

 織田が起き出してからも閉め切られていたそこは、まだしっとりとした昨夜の空気を残していた。その中心、盛り上がった肌掛けの端から、短い黒髪がはみ出している。含み笑いが洩れるのを抑えながら、足音を忍ばせて近づいた。

 肌掛けと、それから寝乱れた浴衣に包まれて、というより絡まるようにして、すよすよと寝息をたてている。肌掛けの端をしっかり抱き込んでいるのがいじらしい。この部屋の主で、かつて自然主義の大家と呼ばれ、織田が越えるべき目標とした男——徳田秋声も、今となっては見た目二十歳にも満たない、なんとなれば織田よりも幼い、ひとりの若者にすぎなかった。

 織田が目を覚ましたときは、その指先は織田の浴衣の袖にすがりついていて、引き剥がすのに難儀したものだ。昼間の、気難しそうな眉間の皺はほどけて、くっきりとした眉はなだらかな下り坂を描いていた。

 薄味ながらも端正な顔立ちは、艶事にも無縁なように思わされる。しかしその首から下が問題で、

 (これは……絶景、言うてええのんやろか)

 緩く着付けた浴衣は胸元の合わせが大きく開いて、象牙色の滑らかな肌があらわになってしまっていた。覗き込めば、呼吸に合わせて一段濃い色合いがちらちらと見え隠れする。乱れきった裾からも、すんなりとした脚が太腿まで剥き出しになっている。

 普段きっちりと着込んでいるだけに、風呂場以外の明るいところでさらけ出された素肌は、これまでさんざん目にしていても胸をざわつかせる。昨夜余すところなく見て触れて、その内側にまで踏み込んでいてもそれは変わらない。

 しっとりとした内腿の白さが目に毒で、浴衣の裾をつまんで直してやると、んん、と小さな呻き声とともに爪先がぴくんと動いた。密生した睫毛が震えて、炭粉を含んだ塩飴のような瞳が現れる。

 「お、おはようさん」

 「んう……」

 まだ覚醒しきらない様子で、秋声はもそもそと浴衣の乱れを直す。着こなれた綿生地が肌を包み隠すと同時に、しなやかな身体の輪郭を浮かび上がらせる。小さなあくびひとつにも律儀に口元に手をやる、そんな育ちのよさそうなそぶりが、ひどく愛らしいものに織田の目には映っていた。

 あくびのおかげで潤んだ墨色の瞳が、ぱちぱちと瞬きを繰り返しながら焦点を織田へと合わせていき、はっと何かに気づいたように見開かれる。そして、

 「……君ねえ」

 ゆっくりと身を起こしながら、せっかく解けた眉根をいつものようにきゅっと寄せて、秋声はじっとりと織田を睨み上げた。怒るまではいかずとも、何やら機嫌を損ねているらしい様子にうろたえる、がそれと同時に、赤く染まった頬がふっくりと膨れているのを見つけてしまう。見た目相応どころかそれ以上に幼いしぐさに、笑いをこらえるのもひと苦労だ。

 「すんません、シーツ、洗濯に出しに行っててん。秋声さんぐっすりやったし——」

 「そうじゃなくって」

 乱れた短い黒髪を整えるようにくしゃくしゃと撫でてやると、つり上がっていた眉がふにゃりと下がる。それでも懸命に険しい顔を作ろうとするのに、たまらず敷布団に飛び込むようにして秋声に抱きついていた。ひと回り小さな身体は、まるで元からひとつのものだったように織田の腕にしっくりと馴染む。

 いつもの癖で背中から腰までをそろりと撫でようとすると、帯を越えたあたりで、ぐいと腰を捻るようにして避けられた。何か気にさわることでもしてしまったかと顔を覗き込むと、頬の赤みは耳にまで達して、肩口に額を擦りつけるようにかぶりを振る。そのくせ抱擁自体を拒むふうでもなく、織田の腕の中に収まり続けている。

 「どないしたん? もしかして、どっか痛めた?」

 「違うけど……いてない、から」

 「んん、何?」

 「だから、」

 伸び上がった秋声の吐息が耳元をかすめた。

 「今、……下、穿いてない、から」

 だから触られるのは困る、と口ごもる彼の腰回りを、思わずまじまじと見つめてしまう。複雑な柄と皺のおかげではっきりとはわからないが、柔い布地の一枚下に瑞々しい素肌が息づいているとひとたび意識したが最後、そこにばかり気が向いてしまう。

 「え、穿いてないて……ノーパンなん」

 「のーぱ……そ、そうだよ! 昨夜誰かさんが放り投げちゃうから……疲れてすぐ寝ちゃった僕も悪いけど」

 背中に腕を回したままざっと室内を見渡すが、それらしいものが落ちている様子はない。脱がせるのに夢中になって下着や着衣を手の届かないところへ放ってしまうのは織田の悪癖で、何度も秋声の頬をむくれさせる原因となっているのだが、治る気配がさっぱりない。そもそも治す気がない、というか、わざとやっているというのも多分にある。昨夜もそこまで遠くにやった覚えはないので、

 「あー、こらアレやな、シーツと一緒に洗ってもうたかも」

 「……そう」

 安心したのか気が抜けたのか、秋声は織田の腕の中に収まったままかくんと肩を落とした。

 「悪かったね、いろいろやらせてしまって」

 「ええですよ別に。半分はワシのせいですし」

 今日はふたりとも非番で、それぞれの友人たちとの約束も特に入っていない。だからこそこうして、昨夜はふたりで夜を越えるに至ったわけで、その名残を少しでも引き伸ばしたいと思うのは当然のことだろう。そのうえで、無防備な姿の恋人に寄り添われて気分を悪くするものなど、きっと探す方が難しい。

 今だって秋声の緩み始めた襟元が、ひたりと腰回りに貼りつくような寝間着の布地が、気になって仕方ないのだ。細身ながらもきちんと肉のついた身体は、織田の逸りを温かく受け止めてくれた。けれどそれは夜だからであって、折り目正しいこの人に対しては、お天道様に顔向けできないことはしてはいけない気がするのだ。無頼漢を気取る男にも、聖域に置いておきたいものくらいある。

 それにしたって、触るのはだめなのに抱きしめるのは許されるというのは、なかなかに試されていると思う。もう少し自制心の緩い者なら、おまえが誘うのが悪い、などと難癖をつけて、とっくに押し倒しているところだ。

 「秋声さん、お風呂とか着替えとか、行かんでええの」

 手近な高さにある丸い頭の、ひと房あさっての方向に跳ねた髪を撫でていると、うう、と言葉にならない唸り声が胸元でこもった。おざなりに引っかけた寝間着の身頃に、ぎゅっとしがみつかれている感触がある。視線を落としても、艶やかな髪のつむじが見下ろせるばかりだ。今日はえらい甘えたさんやなあ、とからかいたくなるのを喉元で抑える。

 「そう、だね。……そうだよね。ごめん、でも」

 するりと、蛇のように背中に絡みつくものがあった。それと引き換えに、身頃にすがりつく圧迫感が消えている。規則正しく身を震わせる鼓動が、薄い着衣を隔ててふたつ混ざり合う。

 「なんだか落ち着かなくて……普通にオダサクさんと話してるのに、こんな格好」

 せっかく直した裾は早くも乱れ、複雑な皺の中にひとつ、なんとなく目を引くものがある。肌触りのよい生地と、それを染め上げる古来の紋様に紛れて息づくものを思うと、ぞわぞわと耳の後ろがざわめいた。

 こんな清楚そうななりをして、身の内にしっかりと欲望が育っている。その存在を認め、解き放つことを望みながらも、理性の崖っぷちに留まっている。

 「……そんなら、落ち着けるようにします?」

 自分の役目は、それを踏みとどまらせることではない。少なくとも今の状況で織田に望まれているのは、秋声の背中を押して楽にしてやることだ。

 「ワシも、もじもじしてる秋声さん見てたら、なんやたまらんくなってきたわ」

 共に堕ちる、と悪友の言葉を借りるのは大袈裟かもしれないが。

 「ちょっとだけいけないこと、しましょか。一緒に」

 西洋の砂糖菓子のように色づいた耳に、ひそめた声を落とし込む。

 小さな頭がこくんと揺れるのに、さほど時間はかからなかった。

 

 ***

 

 ついさっきまでふたり身を預けていた、昨夜おろしたばかりのシーツの上に、秋声の背中を支えながら横たえる。半端にはだけているのが気になるのならと、押し倒すのと同時に帯を解いてしまった。今度ばかりは叱られないように帯を布団のすぐ脇に落として、ついでに自分も一気に全部脱いでしまう。

 明るい場所で肌をさらすのは慣れないのか、身じろぎする秋声に覆いかぶさるようにして抱きしめる。張りのある肌から伝わる体温が心地よかった。いつもの調子で顔を寄せると、瞼を伏せながらもわずかに顔を背けられてしまう。

 「口、ゆすいでないから……」

 「……ちゅってするだけでもあかん?」

 薄いが品よく色づいた唇が一瞬、きゅっと噛みしめられて、それから観念したように差し出された。閉じた瞼から睫毛から、小刻みに震えているのがいじらしい。両手の指で足りないほどしていることなのに、とおかしみを覚えながらも、許されたそれをありがたくついばむ。

 何度か繰り返し触れ合ううちに、秋声の身体から余計な緊張が抜けていくのがわかる。褒めるように頬をひと撫でしたその手で、昨夜の記憶を肌の上に復元していく。

 お互い、かつては妻をめとった身である。だからそういった行為の記憶だってあるだろうに、秋声からは何度肌を合わせても、初心の気配が抜けなかった。時折体勢を入れ替えてみたり、自分から欲しがるように仕向けてみたりしても。

 かつての記憶が欠けているせいも、抱かれる側の経験がないから、というのもあるだろう。それを差し引いてもどこか清らかさを残したままなのは、おそらくは今生でのこの意識と肉体がもつ特性なのかもしれない。任務の報酬でもらったという制服の着姿からもうかがえる、規範を外れることなど考えもしない真面目さ。しかしその一方で、彼が生涯書き続けた確固たる意志をもつ女性たちの影が、立居振る舞いの端々に見え隠れする。

 (こういう仲になったときも、ワシがする側がええ、言うたらあっさり納得してくれたけど)

 けっして流されるばかりではなく、たとえば先程の口付けのように、どうしても譲れないところはきちんと主張してくれる。ひょっとしたら、それは秋声にとってひどく悩ましいことなのかもしれないが、惚れた欲目を差し引いても、織田の目にはむしろ好ましく映っていた。

 潤滑剤を足したうえで、両脚の狭間に指先を忍ばせる。そこが昨夜の痕跡を最も色濃く残している場所だった。

 「痛ない? もうちょい慣らします?」

 ささやくと、薄く潤んだ瞳が織田をとらえた。せわしない息継ぎに合わせて、湿った熱が指にまとわりつく。

 「んっ……だい、じょうぶ」

 弓を引くしっかりとした腕が、二本とも織田の腰に回される。昂ぶった欲の先が互いの臍をつつく。

 「だから、——はやく」

 ほとんど吐息だけの声が、身のうちでくすぶる熱をそのまま、鼓膜越しに伝えてくる。蘇らせた夜の記憶も一緒に。それに知らぬふりを決め込んで、涼しい顔でいられるほど、織田の意識は達観には程遠い。

 ゴムするまでちょお待って、と枕元に手を延ばした織田に、秋声はそんなときばかり邪気のない表情で、微笑み返してみせるのだった。



 

 他人の体温はとかく眠りを誘う。ひとしきり睦み合ったあとで、適度に疲労を覚えていればなおさらだ。夜ならばそのまま寝入ってしまってもたいした問題ではなかったが、どれだけ爛れたひとときを経ようと、これから一日が始まろうとしているのだった。

 「……食堂、閉まっちゃったね」

 織田の敷き布団状態になっている秋声の腹の、きゅるきゅると鳴く音が皮膚越しに伝わってきた。身体を離して拭いたきりの、踏み込まれたら言い訳のきかない格好である。まだ両腕が寝間着の袖に通っている秋声はともかく、織田に至っては全裸である。肌掛けも脇によけてしまって、冷えるだろうからと気を回した秋声が、かろうじて寝間着の裾を尻にかけてくれていた。

 「動けそうです?」

 「うーん……多分。ちょっとふらつくかもしれないけど」

 「そんなら、外に食べ行きましょ。駅前の喫茶店の、蜂蜜トースト」

 生前でもハイカラなものを好んだ彼ならば、きっと食いついてくるだろうという勝算が少なからずあった。案の定、蜂蜜トースト、と口の中で繰り返して喉を鳴らした秋声の瞳は、目の前にそれを出されたかのようにきらめいている。

 「な、焼きたてのパンの上に蜂蜜たっぷりかけて、とろっとろになったとこにガブっていくでしょ。んで、口ン中甘々になったんをあっついコーヒーで……」

 もう一押しとばかりに熱弁をふるっていると、胸の下に組み敷いたままの温もりがふるふると震えだした。群生する野花が風に吹かれるように、肩をすくめた秋声が笑っている。

 「なんや、ワシ何かおかしいこと言うてます?」

 「ふふっ……ごめん、そうじゃないけど、さっきまでとずいぶん違うなって」

 「それはお互い様やろ」

 裸で抱き合っていて、周りには脱いだ服やら何やらが散らかる中で、ふたりの笑い声ばかりが明瞭だった。背中に回った秋声の両腕に力がこもったかと思うと、ころんと横倒しに転がされる。

 「そうと決まったら、早く支度しよう。洗濯ももう終わってるでしょ」

 下着も忘れないでよね、と念を押しながら、秋声はゆっくりと上体を起こす。いつの間にか回収した帯を片手に手早く裾を直して、織田の脱ぎ散らした寝間着も拾い上げて渡してくれながら、ひと足先に夜の世界から抜け出していくのだった。

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